「なぜ近代科学はヨーロッパで生まれ、中国やインドでは生まれなかったのか?」
こうした疑問はよく聞かれますが、実はこの問いには少し誤解があると思います。
実は、中国やインドは決して「遅れた文明」ではありませんでした。
18世紀ごろまでは、中国とインドだけで世界経済の約半分を占め、それぞれヨーロッパと並ぶ重要な文明圏だったのです。
違っていたのは、知識や科学に対する考え方です。
ヨーロッパでは、知識は「世界の仕組みを解き明かし、書き換えるための道具」でした。
一方で中国やインドでは、知識は「社会を安定させたり、人の内面を整えたりするためのもの」だったのです。
この違いが、近代科学が生まれた場所の差につながったと考えられます。
ここでは、ヨーロッパ・中国・インドという三つの文明を、「科学や知識との向き合い方」という視点から、できるだけ分かりやすく比べてみます。
① ヨーロッパ:知識は疑ってもいいもの

ヨーロッパで生まれた近代科学の一番の特徴は、疑うことが許されているという点にあります。
どれほど偉い学者の説でも、観測や実験で違っていれば修正されるのです。
そのためヨーロッパにおける近代科学では 「正しさ」は、身分や伝統ではなく、「確かめられるかどうか」で決まります。
実際に、ガリレオやニュートンは、自然をただ神秘的なものとして受け止めるのではなく、測ったり、数で表したりできる対象として考えていました。

この姿勢は、時に権力者の反感を買うこともありました。
なぜなら長い間信じられてきた宗教や常識を、疑うことにつながるからです。
それでもヨーロッパの学者たちは、権力者に反対されたとしても、知識を前に進めようとすることが多かったのです。
これにはヨーロッパには多くの国があり、もし考えが1つの国で受け入れられない場合でも、別の国で活動を続けることができたことが関係しています。
例えば、哲学者のルネ・デカルトは、思想的な圧力を避けるためにフランスを離れ、自由な雰囲気のあったオランダで重要な著作を書いていました。
② 中国:知識は社会の安定を支えるもの

一方、中国では、知識の役割そのものがヨーロッパとは大きく異なっていました。
中国文明において知識は、個人の好奇心を満たすものというより、社会と国家を安定させるためのものでした。
その代表的な例といえるのが「科挙」です。
科挙は、儒教の経典をどれだけ正しく理解し、伝統的な考え方をきちんと身につけているかを問う官僚の採用試験でした。

これは単なるテストではなく、「国家を支える価値観を共有できる人物かどうか」を見極める制度でもありました。
そのため中国では、「正しい知識」とは、権力者から正式に認められた考え方であり、新しい理論を自由に打ち立てることは、あまり望ましいことではありませんでした。
もし中国にニュートンのような人物が現れ、「自然はこの法則で動いている」と主張したとしても、「それは昔の教えと矛盾しないか」「社会の秩序を乱さないか」といった点が、まず問題にされた可能性も高いと思います。
そのため、中国のこうした科学観は、新しい法則を次々に生み出していく考え方とは、あまり相性が良くなかったと思われます。
③ インド:知識は自分の内側にあるもの

インドの場合は、さらに違った方向を向いていました。
インド文明の関心は、外の世界をどう動かすかよりも、人間の心や意識をどう理解するかにありました。
そのため古くからインドでは、「意識とは何か」、「なぜ人は苦しむのか」「どうすれば心は自由になれるのか」 といった問いが重視されてきました。
例えば、仏教を開いたブッダは、その代表的な例と言えるでしょう。
そのため、インドでは宗教や数学、論理学といった分野はとても発達しましたが、それは自然法則を支配するためというより、自分の思考や認識を細かく整理するためのものでした。
そのため、近代科学のような自然界の法則を一般化し、数式でまとめ上げることは、文明の中心的な目標にはならなかったのです。
④ なぜ近代科学はヨーロッパで生まれたのか

近代科学がヨーロッパで発展したのは、知識に対するヨーロッパならではの考え方があったからです。
ヨーロッパでは、知識は守るものではなく、試しながら作り直していくものだと考えられていました。
さらに、ヨーロッパでは国が多く分かれていたため、ある国で理解されなかったとしても、別の国で挑戦を続けることができました。
一方、中国では知識は社会を安定させるためのものとされ、インドでは人の内面を深く理解するためのものとされていたことが多かったので、自然の法則を次々に発見していく方向性にはならなかったのです。
⑤ 21世紀の科学はどうなるのか?

現代では、ヨーロッパ型の科学だけで、世界のすべてを説明したり、動かしたりすることが難しくなってきました。
AIやビッグデータ、脳科学、メンタルヘルス、巨大な社会システムの運営など、扱う対象が「自然」だけでなく、「社会全体」や「感情」へと広がっているからです。
こうした分野では、中国やインドの知識に対する考え方が強みを発揮してくると思います。
まず、中国では近年、国家主導でAIやビッグデータを活用し、インターネット、工業、農業、交通、金融、行政などを一元的に管理して最適化しようとする取り組みが進められています。
ここでは、新しい理論を自由に生み出すことよりも、すでにある技術やデータを社会全体で正しく運用する力が重視されています。
これは、知識を社会の安定と秩序を支えるものとしてきた、中国の伝統的な科学観ともよく重なると思います。
そして、インドが相性の良さを見せるのは、脳科学や意識に関するテクノロジーの分野かもしれません。

インドでは古くから、人間の意識や心の働き、苦しみや解放といった内面の問題が深く探究されてきました。
将来、脳とインターネットを直接つなぐ技術が現実のものになれば、「人がどう感じ、どう意識するか」を理解する視点が重要になっていくと思います。
実際に、イーロン・マスク氏が創業したNeuralinkのように、脳と機械を結びつける試みが進む中で、インド的な内面への理解は、これまでとは違った新しい意味を持つ可能性があるといえます。
21世紀に入ってから、中国やインドが急速に発展し、欧米に並ぶ経済大国へと近づいているのは、単なる偶然ではありません。
そこには、こうした科学や知識に対する考え方が、現代のテクノロジーと相性よく噛み合っているという側面もあるでしょう。
まとめ
まとめるとヨーロッパは、自然を疑い、分けて考え、法則を見つける科学を発展させました。
その一方で中国では、知識は社会の安定を支えるためのものとして扱われ、インドでは、人の内面を見つめ、体験を通して真理を探ることが重視されてきました。
こうした違いを知ることで、世界の科学や思想は、より立体的に見えてくると思います。
